
東京都の歴史散策(妙見山別院、勝海舟像、藤田東湖「天地正大気」の漢詩碑、榎本武揚像…)
【本日の行程】 徒歩21,700歩
①江川太郎左衛門屋敷跡→②五柱稲荷神社→③勝海舟居住の地(旗本岡野氏屋敷跡)→④妙見山別院→⑤霊山寺→⑥妙縁寺→⑦勝海舟像→⑧水戸徳川邸舊址→⑨藤田東湖「天地正大気」の漢詩碑→⑩牛嶋神社→⑪三囲神社→⑫弘福寺→⑬三浦乾也旧居・窯跡→⑭長命寺桜もち→⑮榎本武揚旧居宅⑯白髪神社→⑰岐雲園跡 岩瀬忠震居住の地→⑱木母寺→⑲榎本武揚像
もくじ
①江川太郎左衛門屋敷跡
住所: 東京都墨田区亀沢2丁目7−7

江川太郎左衛門屋敷跡
所在地 墨田区亀沢一丁目三番
幕末に活躍した江川太郎左衛門英龍は、享和元年(一八〇一) 現在の静岡県伊豆の国市韮山に生まれました。天保六年(一八三五)三十五歳の時、韮山代官に就任し、伊豆・駿河・ 相模・武蔵・甲斐の五か国の天領(幕府の直轄地)を管理していました。代官の役所は、韮山と江戸の二か所にあり、韮山役所で伊豆国・駿河国駿東郡の支配にあたり、残りは江戸屋敷で管理していました。嘉永七年(一八五四)頃には、最も多くの家来を召し抱えており、江戸屋敷には、手付三人、手代十四人がいたようです。
韮山代官となった英龍は、領民のために誠実な仕事を行ったので、郡内地方では、端午の節句に「世直江川大明神」と書かれた紙のぼりを立てていたようです。
その後、海防の観点から、西洋文化の知識を積極的に摂取し、品川台場の建設などに尽力しました。韮山に鉄製大砲を製造するための反射炉を築造したことでも知られています。
また、外国からの攻撃に備え、保存性、携帯性にも優れていた乾パン(兵糧パン)を日本で初めて考案し焼かせたことでも有名です。
安政二年(一八五五)一月十六日、この地で五十五歳の生涯を閉じ、韮山の本立寺に葬られました。
平成二十八年二月
墨田区教育委員会
江川太郎左衛門屋敷跡前
江川太郎左衛門は、伊豆韮山を本拠地とした幕府の世襲代官で、太郎左衛門とは江川家の代々の当主の通称です。なかでも有名だったのが、三十六代の江川英龍(一八〇一~五五)です。
彼は洋学の中でも、とりわけ近代的な沿岸訪備の手法に強い関心を抱き、日本に西洋砲術を普及し、韮山に反射炉を築いて江戸防御のため、江戸湾内に数カ所あった砲台(お台場)を造りました。また、日本で初めてパンを焼いた人物だともいわれています。
この屋敷は、代官の役所も兼ねていて、土佐国中濱村の漁師で、嵐で遭難し、米国の捕鯨船に救われ、ほぼ十年振りに帰国した 中濱萬次郎を敷地内の長屋に住まわせ、英語を講義させたといわれています。
墨田区
韮山反射炉(静岡県伊豆の国市中268)
撮影日:2024年4月10日
パン祖の碑(静岡県伊豆の国市韮山韮山1−1)
撮影日:2024年4月11日
②五柱稲荷神社
住所: 東京都墨田区緑4丁目11−6
③勝海舟居住の地(旗本岡野氏屋敷跡)
住所: 東京都墨田区緑4丁目35−9

勝海舟居住の地ー旗本岡野氏屋敷跡一
所在地 墨田区緑四丁目三十五番六号
勝海舟(麟太郎)は、文政六年(一八二三)に両国にあった父惟寅の実家、男谷氏の屋敷(現区立両国公園)で誕生しました。その後、父母とともに本所の旗本屋敷を転々としましたが、天保二年(一八三一)頃ここにあった岡野氏の屋数に落ち着き、十代後半までの多感な時期を過ごしたといわれています。麟太郎は後に幕臣として出世を果たし、激動の時代に活躍の場を広げてゆきます。
麟太郎が世語になった岡野氏は、後北条氏の旧臣板部岡江雪を祖とする旗本で、文政九年十二月の屋敷替を経て、同十年三月ごろ当地に移住していました。家の経営費を捻出するための屋敷替であったようで、旧知行所に伝わる資料によれば、旧居を担保に数百両の金を用立て、 代わりに旧居の半分ほどしかない屋数に移住していたようです。幕府創業期より続く由緒ある武家とはいえ、岡野氏の家計は大変逼迫していたのです。このため、幕末推新の時代ともなれば家来を召し抱えるのも容易でなく、一人分の給与さえ支払えぬ事態に陥ります。
正月に餅をつく金さえなかったという貧しい下級旗本の家に生まれた麟太郎は、こうした武家凋落の厳しい時代に成長し、大志を抱いて力強く立身していったのです。
平成二十五年一月
墨田区教育委員会
④勝海舟胸像(能勢妙見堂 )
住所: 東京都墨田区本所4丁目6−14

勝海舟九才の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創二百年を迎へ海舟翁の偉徳を永く後世に傳へるため地元有志に仍ってこの胸像が建てられた
昭和四十九年五月十二日
略縁起
當山は大阪能勢妙見の全國唯一の別院であり能勢家の子孫が代々守護に任じて居ります
今より百九十五年前安永三年五月十一日の創建です
この地は當時下總國葛飾郡本所横川町と稱し能勢筑前守頼直の江戸下屋敷であり妙見堂を建立して知行所たる摂津國妙見山より妙見尊像を分祀したものです。江戸末期幕臣勝子吉が愛息麟太郎後の海舟の開運勝利を水垢離(※1)を取って祈願したことは子母沢寛氏が「父子鷹」に詳しく記して居ます。
震災戦災と二度の火災の為め宝物尽く烏有に帰しましたが妙見尊像は巨難を免れ御内陣に奉姿されて在ります
境内に鴎大善神の祠ありその黒礼は魔よけの御守として江戸時代より能勢の黒札として有名なり
昭和四十四年配年五月 能勢家三十六代 能勢日妙誌す
(※1)水垢離(みずごり)
神や仏に祈願したり神社仏閣に参詣する際に、冷水を被り、自身が犯した大小様々な罪や穢れを洗い落とし、心身を清浄にすることである。(Wikipediaより)
野良犬強襲事件(病犬に金玉を噛まれた事件)
「Wikipedia」によると、事件の概略は次の通りです。
「本の稽古の帰り道に海舟が野良犬に襲われて、野良犬が袴の中にへ潜り込み、陰嚢を噛み切られて睾丸が露出する程の裂傷を負った。(略)外科医に様子を伺うと「今晩持つかどうか保証出来ない。」との診断で、生死を彷徨う重傷で小吉(海舟の父)は、金毘羅へ願掛けの裸参りを行い、毎晩水垢離をして祈った。」
父の小吉は、破天荒な人物で喧嘩は強く道場破りをしたり、放浪の旅に出たり、収入もないのに借金して遊んだり、自由奔放な生活をしていました。
このような小吉ですから、能勢妙見堂へ祈禱するときも喧嘩ごしでした。
小吉は妙見菩薩に「お前が本物なら息子を直して証明してみろ」と凄み、次いで「もしもこのまま息子が死んだら、俺があの世に行った際、諸神諸仏に妙見菩薩はイカサマだとぶちまけるが、どうなんだ!」とおどしあげたという。(『東京「幕末」読み歩き』より)
そのおかげか、海舟は病状が回復します。ただ後遺症が心配でしたが、海舟は子だくさんでした。正妻民との間には4人の子供が誕生し、妾4人との間にも5人の子供が誕生しています。野良犬強襲事件の影響はなかったようです。
⑤霊山寺
住所: 東京都墨田区横川1丁目3−22

⑥小ノ島の墓(妙縁寺)
住所: 東京都墨田区吾妻橋2丁目2−10

小ノ島(小野島)は、薩摩藩江戸藩邸の奥老女で、大変な実力を持っていた奥の実力者です。十三代将軍徳川家定に薩摩から篤姫(後の天璋院)が嫁ぎます。
そうすると小ノ島は、江戸城大奥に入った篤姫と薩摩藩邸の政治的な情報を含めた連絡役を務めることになります。
当時、薩摩藩主島津斉彬が強く推していた一橋慶喜を次期の将軍にするための情報交換をしていました。
⑦勝海舟像
住所: 東京都墨田区吾妻橋1丁目23
建立の記
勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、 安芳)は、文政六年(一八ニ三年)一月三十日、 江戸本所亀沢町(両国四丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治三二年 (一八九九年)一月十九日(発喪は二十一日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。
勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに 、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発言源となれば、幸甚と存じます。
海舟生誕百八十年
平成十五年(二〇〇三年)七月二十一日(海の日)
墨田区長 山﨑 昇
勝海舟略年表
| 西暦 | 和暦 | 年齢 | 月日 | 海 舟 事 項 |
| 一八二三 | 文政 六 | 一 | 正月晦日 | 江戸本所亀沢町の男谷邸(現両国四丁目)に生まれる。父は勝小吉、母は信子。通称麟太郎。名は義邦。 |
| 一八二九 | 文政十二 | 七 | このころ | 十二代将軍家慶公の五男初之丞に召されたという(九歳または十二歳まで)。 |
| 一八三八 | 天保 九 | 十六 | 七月二七日 | 父小吉隠居し(号夢酔)、家督を相続。 |
| このころ | 島田虎之助の道場(浅草新堀)に住み込み、剣術修行を始める。夜は牛島神社(王子権現)で寒稽古。 | |||
| 一八四一 | 天保十二 | 十九 | 牛島の弘福寺にて、座禅を修める。 | |
| 一八四五 | 弘化 二 | 二三 | 九月 | 岡野孫一郎の養女民子(砥目氏の娘)と結婚。 |
| このころ | 永井青崖に蘭学を学ぶ。 | |||
| 一八四六 | 弘化 三 | 二四 | 春 | 本所から赤坂田町に転居。 |
| 一八四八 | 嘉永 一 | 二六 | 八月二日 | 日蘭辞書「ヅーフハルマ」の筆写(二部)終了。 |
| 一八五〇 | 嘉永 三 | 二八 | 九月四日 | 父小吉死去(四九歳)。 |
| この年 | 赤坂田町に私塾を開き蘭学と西洋兵学を教授。 | |||
| 一八五二 | 嘉永 五 | 三十 | この年 | 諸藩の依頼を受け鉄砲・大砲を鋳造。 |
| 一八五三 | 嘉永 六 | 三一 | 七月 | 「海防意見書」を提出。 |
| 一八五五 | 安政 二 | 三三 | 正月十九日 | 大久保一翁の推挙で、藩書翻訳勤務を命じられる。 |
| 七月二九日 | 長崎海軍伝習を命じられる。 | |||
| 八月七日 | 小普請組から小十人組となる。 | |||
| 九月一日 | 長崎に向かう(十月二十日長崎着)。 | |||
| 一八五六 | 安政 三 | 三四 | 三月十一日 | 講武所砲術師範役となる。 |
| 六月晦日 | 海軍伝習の功により大番に番替えとなる。 | |||
| 一八五八 | 安政 五 | 三六 | 二月より | 咸臨丸で下関・五島・対馬・鹿児島などを巡航。 |
| 三月・五月 | 鹿児島で島津斉彬に謁する。 | |||
| 一八五九 | 安政 六 | 三七 | 正月十五日 | 長崎の伝習を終え、江戸帰府。 |
| 七月 | 赤坂元氷川町に転居。 | |||
| 十一月二四日 | アメリカ派遣を命じられる。 | |||
| 一八六〇 | 万延 元 | 三八 | 正月十三日 | 咸臨丸で品川沖を出航、アメリカに向かう。 |
| 二月二五日(和暦) | サンフランシスコ到着。 | |||
| 閏三月十八日(和暦) | サンフランシスコを出航、帰国の途につく。 | |||
| 五月五日 | 浦賀に帰港。 | |||
| 五月七日 | 江戸に帰る。 | |||
| 六月二四日 | 藩書調所頭取助となる。 | |||
| 一八六一 | 文久 元 | 三九 | 九月五日 | 講武所砲術師範役となる。 |
| 一八六二 | 文久 二 | 四十 | 七月四日 | 軍艦操練所頭取となる。 |
| 閏八月十七日 | 軍艦奉行並になる。 | |||
| このころ | 坂本龍馬ほか9名海舟の門下生となる。 | |||
| 一八六三 | 文久 三 | 四一 | 四月二三日 | 将軍家茂の摂津湾巡覧を案内、家茂から直接神戸海軍操練所設立の許可を得る。 |
| 十二月二八 | 再上洛する将軍家茂を奉じて海路で大阪へ向かう(元治元年正月八日大阪着)。 | |||
| 一八六四 | 元治 元 | 四二 | 二月五日 | 一橋慶喜より、長崎派遣を命じられる(四月十二日大阪帰還)。 |
| 五月十四日 | 軍艦奉行となり、従五位下安房守に叙せられる。 | |||
| 五月二九日 | 神戸海軍操練所設置布達。 | |||
| 十一月十日 | 軍艦奉行罷免、寄合となる。(慶応元年三月九日神戸海軍操練所廃止)。 | |||
| 一八六六 | 慶応 二 | 四四 | 五月二八日 | 軍艦奉行再勤を命じられる。 |
| 八月十五日 | 一橋慶喜より長州藩との休戦を調停する密命を受ける。 | |||
| 九月二日 | 安芸宮島で長州藩広沢真臣らと会談、休戦を協定。 | |||
| 一八六七 | 慶応 三 | 四五 | 三月五日 | 海軍伝習掛を命じられる。 |
| 一八六八 | 慶応 四 | 四六 | 正月十七日 | 海軍奉行並となる。 |
| 正月二三日 | 陸軍総裁となる。 | |||
| 二月二五日 | 陸軍総裁を免じ、軍事取扱を命じられる。 | |||
| 三月十三日 | 高輪の薩摩藩邸にて西郷隆盛と会見。 | |||
| 三月十四日 | 田町にて再び西郷と会見、江戸無血開城を決める。 | |||
| 四月十一日 | 江戸城引き渡し終了。 | |||
| (明治元) | ~ | 九月八日 | 改元。 | |
| 十月十一日 | 蒸気船で東京を離れ駿府に向かう(十二日着)。 | |||
| 一八六九 | 明治 二 | 四七 | 七月十三 | 安房守を安芳と改める。のちに安芳を本名とする。 |
| 七月十八日 | 外務大丞に任じられる(八月十三日辞退免職)。 | |||
| 十一月二三日 | 兵部大丞に任じられる(翌年六月十二日辞退免職)。 | |||
| 一八七〇 | 明治 三 | 四八 | 三月二五日 | 母信子、静岡で没。 |
| 一八七二 | 明治 五 | 五十 | 五月十日 | 海軍大輔となる。 |
| 八月 | 静岡より帰京、赤坂氷川町四丁目に居す。 | |||
| 一八七三 | 明治 六 | 五一 | 三月三日 | 島津久光慰撫のため、鹿児島へ派遣の命を受ける。 |
| 十月二五日 | 参議兼海軍卿となる。 | |||
| 一八七五 | 明治 八 | 五三 | 四月二五日 | 元老院議官に任命されるが、直ちに辞表提出(十一月二八日に承認)。 |
| 一八七九 | 明治十二 | 五七 | 七月三十日 | 木下川浄光寺境内に西郷隆盛追悼の碑を建立。 |
| 一八八三 | 明治十六 | 六一 | この年 | 吉井友美・税所篤らと西郷隆盛の名誉回復運動始める。 |
| 一八八四 | 明治十七 | 六二 | 四月二五日 | 遺児寅太郎の参内で西郷隆盛の名誉回復。 |
| 一八八七 | 明治二十 | 六五 | 五月九日 | 伯爵となり、華族に列す。 |
| この年 | 「吹塵録」35冊、「吹塵余録」9冊編纂成る 。 | |||
| 一八八八 | 明治二一 | 六六 | 四月三十日 | 枢密顧問官となる。 |
| この年 | 「海軍歴史」25巻編纂成る。 | |||
| 一八八九 | 明治二二 | 六七 | この年 | 「陸軍歴史」30巻編纂成る。 |
| 一八九〇 | 明治二三 | 六八 | 七月十日 | 貴族院の伯爵議員に互選されたが辞退。 |
| 一八九一 | 明治二四 | 六九 | この年 | 「 開国起源」 成る。 |
| 一八九二 | 明治二五 | 七十 | 二月七日 | 長男小鹿病死(四一歳)。二月徳川慶喜の十男を養子にすることを内定。 |
| 一八九五 | 明治二八 | 七三 | 五月二一日 | 朝鮮処分等につき意見書を起草。 |
| 一八九八 | 明治三一 | 七六 | 二月二日 | 徳川慶喜参内して天皇・皇后に拝謁し、名誉回復。 |
| 三月三日 | 慶喜、海舟宅を訪れ名誉回復の謝意を表す。 | |||
| 一八九九 | 明治三二 | 七七 | 一月十九日 | 自宅で死去(発喪二一日)。 |
| 一月二五日 | 青山墓地で葬儀。洗足池畔に葬る。 |
(江戸東京博物館『没後100年勝海舟展』を参照)
平成十五年(二〇〇三年)七月二十一日
墨田区教育委員会
⑧水戸徳川邸舊址
住所: 東京都墨田区向島1丁目3
江戸末期の古地図には「常陸水戸藩(茨城) 蔵水戸中納言慶篤[徳川]三十五万石 23,110坪余」と書かれています。

注意! 正確に読み取れていないかもしれません。
隅田公園水戶邸跡由来記
コノ地、江戸時代 水戸徳川家ノ下屋敷 小梅別邸が置カレタトコロデアル
徳川御三家ノ一ツデアル水戸家ガ オ浜屋敷 中央区二替エテコノ地ヲ賜ッタノハ 元禄六年 一六九三年 三代綱條公ノ時デアル 屋敷ハ 西ハ隅田川二面シ南ハ北十間川ヲ巡ラシ 面積オヨソ六万六千平方メートル 約二万坪 南北二百メートル余 東西約三百メー トルニワタリ南二広ガル梯形ノ地デ 現在ノ向島一丁目ノホボ大半ヲ占メ 墨田区南部二置力レ夕大 小名屋敷八十余ノウチデ最大ノ規模ヲ誇ルモノデアッタ コノ屋敷 現在後楽園ノ名が残ル小石川本邸 駒込別邸 イズレモ文京区 ノ控トシテ 従者デアル蔵奉行 水主 鷹匠ノ住マイナドニアテラレ マタ西側に接シタ一角ニハオ船蔵ガ置カレ 水戸家所有ノ船 材木ナドガ保管サレテイタ
弘化元年 一八四四年 烈公トシテ知ラレル九代齊昭公ガ藩政改革ノ一端カラ幕府ノ誤解ヲ招キ駒込別邸デ謹慎ヲ命ジラレタ際 改革派ノ中心デアリ高名ナ水戸学者デアッタ藤田東湖ガ責任ノ一斑ヲ負イ蟄居ノ日々ヲ送ッタノモ コノ屋敷内ノ長屋デアッタ
ヤガテ明治維新トナリ 十一代昭武公ノ代ヲ以テ藩政度ハ解消 一時政府ノ管理スルトコロトナッタモノノ 爾後 改メテ水戸家本邸ガ置カレ 明治八年ニハ 明治天皇 同二十五年ニハ 昭憲皇太后ノゴ訪間ヲ受ケタ シカシ大正十二年九月 関東大震災ノ劫火ニ帰シ 二百三十年ニ及ブ水戸屋敷ノ歴史ハ閉ジタノデアル
昭和六年 帝都復興計画ニ基ヅキ隅田公園ガ造営サレルト 水戸邸ノ旧 跡ハ同園ニ取リ入レラレ 往時ヲシノブヨスガノ 一角ニトドメ 広ク市民ノ憩イノ場トナッテイタ シカシソノ後 半世紀近イ歳月トトモ二環境ハ変化シ マタ第二次大戦ノ戦火ノ被害モアリ ソノ面影モオオカタ失ワレタ
昭和五十年 コノ公園ヲ管理スルコトトナッタ墨田区ハ 同五十二年区制施工三十周年ヲ記念シテ改修ニ着手 コノタビ昔日ノ風趣ヲ伝エル日本風庭園ヲ再現サセタ ココニ カッテノ水戸徳川邸ノ林泉ノ美ガ復元サレ タコトヲ機会トシテ一碑を建テ イササカコノ地モ由来を記シ 後世ニ伝エルモノデアル
昭和五十四年四月
⑨藤田東湖「天地正大気」の漢詩碑 (尊皇攘夷派のバイブル)
住所: 東京都墨田区向島1丁目3
藤田東湖「天地正大気」の漢詩碑
所在地 墨田区向島一丁目三番 隅田公園内
江戸未期の尊王攘夷論者として知られた水戸藩士藤田彪(号は東湖)の「和文天祥正氣歌」の刻まれた漢詩碑です。
弘化二年(一八四五)十一月、藤田東湖はこの地にあった小梅の水戸徳川家下屋敷に幽閉されているときに次の詩を作りました。
「天地正大の気、悴然として神州に鍾まる。秀でては富士の嶽となり、巍々として千秋に聳ゆ…(下略)」と、五言七十四旬の中に天地自然の美しさと日本古来の国体を賛美した内容で、通称「正気の歌」の名で有名です。
中国宋時代の忠臣文天祥も敵に捕まり、故国を賛美した「正気之歌」を作詩したことから、同じ境遇の東湖は同名の漢詩を作りました。
東湖は、文化三年(一八〇六)水戸に生まれ、彰考館編修として攘夷論を水戸学としてまとめあげました。 また、徳川斉昭の腹心として藩政改革に活躍したことでも知られています。安政二年(一八五五)の大地震のときに、五十歳で不運な死を逃げましたが、この漢詩は水戸の尊皇攘夷派のバイブルとなり、さらには幕末の志士たちに大きな影響を与え、明治維新の原動力になったといわれています。
この碑は、昭和十九年(一九四四)六月に東湖会が建立しました。
平成二十年三月
墨田区教育委員会
藤田東湖は、主君の徳川斉昭が失脚して第一線を退いたことに伴って、弘化2(1845)年から2 年間、水戸藩下屋敷(現隅田公園)で謹慎生活をおくりました。そのときに「正気の歌」を作ったので、ここに碑が建てられました。
「正気の歌」には、次のことが書かれています。
「日本は世界の中で一番優れている。忠君愛国の精神や尊王攘夷という正義が集まっている。…」
この碑が建てられたのは、昭和17(1942)年で、前年に日本は真珠湾攻撃を行っています。その時代にマッチし注目されました。
また、この歌は幕末期、尊王攘夷派の志士たちに愛唱され、その士気を高めました。
藤田東湖は安政2年の大地震で、母親を助けようとして圧死しました。東湖の死は美談としてたたえられています。水道橋の駅の近く、東湖が圧死したところに説明板があります。
⑩牛嶋神社
住所: 東京都墨田区向島1丁目4−5
「牛嶋神社は、元来弘福寺の西隣(向島五丁目)に所在しましたが、関東大震災後、帝都復興計画事業に伴い区画整理が実施された際、当地に遷座しました。その際新築されたのが、現在の社殿と神輿蔵です。」(牛島神社説明板より抜粋)

江戸末期の古地図(アプリ「大江戸今昔めぐり」)
現在、牛島神社は向島1丁目にありますが、以前は弘福寺の西隣(向島五丁目)にあったと書かれています。
江戸末期の古地図を見ますと、弘福寺の西隣には「牛御前社」と記されていますが、牛島神社は、かつては牛御前社と称されていました。
勝海舟は、十六歳の頃、島田虎之助の道場(浅草新堀)に住み込み、剣術修行を始めます。一日の稽古が終わると、牛島神社(王子権現)で朝まで素振りなどを繰り返し、島田虎之助の道場に戻り、朝稽古を始めたといわれています。
ほとんど寝る暇なく、厳しい修行に励んでいました。
⑪大橋訥庵の塾(三囲神社 )
住所: 東京都墨田区向島2丁目5−17

三囲神社付近は、かつて小梅村と呼ばれていた地域で、大橋訥庵の塾があり、高杉晋作や伊藤博文が入門しています。訥庵は、江戸時代後期の儒学者で過激な尊王攘夷派として、カリスマ的人気があり、幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を及ぼしました。
訥庵は大の西洋嫌いで、西洋の金儲け主義(資本主義)を日本に入れることに反対していました。そのため幕府に度々外国排除の意見書を提出していましたが、聞き入れられず不満に思っていました。
勅許なしの日米修好通商条約調印や桜田門外の変などが起きると、訥庵は黙っておれず、坂下門外の変を計画しますが、襲撃決行前に捕縛され投獄させられます。
⑫弘福寺
住所: 東京都墨田区向島5丁目3−2

勝海舟は、剣豪の島田虎之助の道場で修行をしていたが、十九歳のころ島田先生から剣術の奥意を極めるには、まずは禅を始めるようにとのすすめで、弘福寺で四年間、座禅の修行をしました。
⑬三浦乾也旧居・窯跡
三浦乾也 旧居・窯跡
天賦の才に恵まれ、若くして乾山6代を襲名した。陶芸家としての道を歩む一方、谷文晁に絵を習い、小川破笠が編み出した破笠細工の蒔絵も学び、彫刻も手がけるなど、多芸多才の士としても知られた。
嘉永6(1853)年、32歳の時に人生最大の転機が訪れる。黒船来航である。驚愕した乾也は、幕府に造艦を建白、雄藩にもその必要性を説き回った。これが認められ、翌安政元(1854)年、勝海舟とともに長崎で建造技術の習得を命じられ、伝習所に赴く。安政3年、仙台藩に造艦惣棟梁として招聘され、 洋式軍艦「開成丸」を見事進水させ、一躍名を知られるところとなる。
この功業により厚遇され、同藩には万延(1860)年まで滞在した。この間、焼物の技術も伝授し、地元の陶工にも影響を与えた。
明治に入って居を東京に移し、近県で創窯、焼物の復興にも努める。明治8(1875)年、54歳で向島長命寺に移り、境内の一隅に築窯し、根付、印籠、帯止めなどの創作に励み、特に簪の珠は「乾也玉」の名で流行した。
⑭長命寺桜もち
住所: 東京都墨田区向島5丁目1−14

⑮榎本武揚旧居宅
住所: 東京都墨田区向島5丁目13−11

榎本武揚 旧居跡
父は幕臣で、伊能忠敬にも師事した知識人であった。武揚も幼い頃から学才に長け、昌平黌で儒学を、江川太郎左衛門から蘭語、中濱萬次郎から英語をそれぞれ学び、恵まれた環境で洋学の素養を身につけた。19歳で箱館奉行の従者として蝦夷地に赴き、樺太探検に参加する。 安政3(1856)年には長崎海軍伝習所に学び、蘭学や造船学、航海術を身につけた。文久2(1862)年に幕府留学生としてオランダに渡って、船舶に関する知識をさらに深める一方、国際法や軍学を修めた。慶応3(1867)年、 幕府が発注した軍艦「開陽」に乗艦して帰国、翌4年に海軍副総裁に任ぜられた。
戊辰戦争では徹底抗戦を唱えたが、五稜郭で降伏、3年間投獄された。この箱館戦争で敵将ながらその非凡の才に感服した黒田清隆の庇護を受け、北海道開拓使に出仕。明治7(1874)年に駐露特命全権公使となり、 樺太・千島交換条約を締結、海軍卿、駐清公使を経て文部大臣、外務大臣などを歴任した。
明治38(1905)年から、73歳で没する同41年までこの付近で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたという。
⑯白髪神社(岩瀬鷗所の墓碑)
住所: 東京都墨田区東向島3丁目4−4

岩瀬鷗所の墓碑
所在 墨田区東向島三丁目五番二号 白鬚神社内
江戸時代末期の外交家。文政元年(一八一八)江戸に生まれました。名は忠震で、鷗所の号は隅田川の辺に住んだことに由来します。幕府の徒頭設楽貞丈の第三子で天保一一年(一八四〇)、旗本岩瀬忠正の養子になりました。嘉永二年(一八四九)老中阿部正弘から目付に抜てきされました
。鷗所は昌平坂学問所で漢学を学ぶにとどまらず蘭学も学び、当時、外国の事情認識においては鷗所が一番といわれました。幕府の鎖国政策を非難したほか、砲台を築き軍艦を造り、講武所と藩書調所を設け海軍伝習を始めるのにも参画しました。後に将軍徳川家定の継嗣選定の問題で、新任の大老井伊直弼と対立したため、安政六年八月に官位を奪われ、蟄居を命ぜられました。
その後向島に隠居し、もっぱら読書文芸にふける悠々自適の生活を送りましたが、文久元年(一八六一)七月一六日、四四歳で歿しました。
平成十六年三月
墨田区教育委員会
⑰岐雲園跡 岩瀬忠震居住の地
住所: 東京都墨田区東向島3丁目5−2
岐雲園跡 岩瀬忠震居住の地
所在地 墨田区墨田一丁目4番
この付近には、幕末の幕臣、岩瀬忠震(1818~1861)の別邸がありました。その別邸は、忠震が所有した画巻の作者、魯岐雲の名にちなんで岐雲園と呼ばれました。広さ約500坪の敷地の中に、河水を引いた汐入り式の庭園があったようです。
忠震は、旗本設楽貞丈の三男で、37歳のとき旗本岩瀬忠正の娘婿となり、同家の家督を継ぎました。昌平坂学問所の教授を務め、その俊才ぶりが老中阿部正弘の目にとまり、登用されて外国奉行にまで出世しました。全権の一人としてロシアやアメリカとの条約締結にかかわったことで有名です。岩瀬と交渉したアメリカ合衆国総領事タウンゼント・ハリスは、「岩瀬の諸全権は綿密に逐条の是非を論究して余を閉口せしめることありき」と回想しています。
しかし、忠震は将軍継嗣問題で対立した大老井伊直弼から蟄居を命じられ、その後は岐雲園で書画にふける生活を送り、文久元年(1861)7月に43年の生涯を閉じました。
なお、東向島の白鬚神社には、友人の永井尚志が撰文した「岩瀬鷗所君之墓碑」があります(鷗所は忠震の号)。岐雲園には後にこの永井が暮らし、忠震を偲びました。また、永井の後には幸田露伴(作家)や、露伴の兄成常(相模紡績社長)も居しました。
令和3年3月 墨田区教育委員会
⑱木母寺
住所: 東京都墨田区堤通2丁目16−1
天下之糸平の碑
幕末から明治にかけて活躍した実業家、田中平八の石碑です。平八は横浜で生糸売込と洋銀売買で巨利を得て、「天下の糸平」と呼ばれました。
表面の文字を揮毫した伊藤博文は平八と親交があり、わが国初代の総理大臣です。碑の裏面には平八の生涯と平八と交友があった渋沢栄一など明治の政財界の知名人の名が列ねてあります。これらの人々は木母寺の明治再興(明治二十二年)に協力され、その縁で二年後に建碑されました。
高さ5.2メートル、幅3メートル、重量80トンある都内第一の石碑です。
⑲榎本武揚像
住所: 東京都墨田区堤通2丁目6−11
墨田区登録有形文化財
銅造榎本武揚像
榎本武揚は、天保7年(1836)に幕臣の子として江戸に生まれ育ち、昌平坂学問所(昌平黌)で学び、安政3年(1856)幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入りました。その後、オランダに留学し、最新の知識や技術を身につけ、慶応2年(1866)幕府注文の軍艦開陽丸を回送し帰国しました。
武揚帰国後の日本は「大政奉還」「大政復古」という体制転換を迎え、武揚は戊辰戦争の最後の戦いとなった箱館戦争では、五稜郭を中心に明治政府に抵抗しましたが、明治2年(1869)降伏しました。
その後、武揚は投獄されましたが傑出した人材として赦免され、明治政府に出仕しました。明治8年(1875)には、海軍中将兼特命全権公使として、樺太(サハリン)・千島交換条約の締結に尽力しました。
明治18年(1885)伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命されると、旧幕臣でありながら逓信大臣に就任以降、文部、外務、農商務大臣などの要職を歴任しました。また、東京農業大学の前身である私立育英黌農業科を創設したほか、化学、電気、気象などの各学会に関わりを持ち、日本の殖産産業を支える役回りを積極的に引き受けました。
晩年は成島柳北邸(現言問小学校)の西側に屋敷を構え、悠々自適の日々を過ごしました。明治41年(1908)10月に73歳でなくなりましたが、墨堤を馬で散策する姿や、向島百花園で草花を愛でる姿が見られたそうです。
「銅像について」
本像は青銅製で、高き約400cmの台座上に像高約300cmの榎本武揚の立像が乗っています。
建立は大正2年(1913)5月で、当時の木母寺の境内である当該地に建てられました。白鬚東地区防災拠点建設に伴い木母寺は移転しましたが、本像は当該地に残されました。
本像の原型作者は田中親光、藤田文蔵、鋳造者は、平塚駒次郎であることが台座背面に記されています。また、建設者に大隈重信、大倉喜八郎、渋沢栄一など当時の政財界の代表的人物が名を連ねています。
原型作者のひとりである藤田文蔵は、洋風彫刻界における先覚者として位置づけられ、代表作に陸奥宗光銅像(外務省)や井伊直弼銅像(掃部山公園、太平洋戦争で供出)、狩野芳崖胸像(東京国立博物館)などが知られています。
墨田区登録有形文化財
銅造榎本武揚像
所在地 墨田区堤通二丁目六番十号
墨田区立梅若公園内
本像は、榎本武揚没後の大正二年(一九一三)五月に建立されました。銅製で、像高は約三メートルあり、南を向き、大礼服姿で荘重な趣を呈しています。彫刻は、衣服の質感や顔の表情が細かく表現され外形描写に優れています。
榎本武揚(一八三六~一九〇八)は、戊辰戦争終盤の箱館戦争で明治新政府軍と戦った旧幕臣として著名な人物です。
武揚は箱館戦争の中心人物として投獄されましたが、維新後は明治政府に出仕し、文部大臣、外務大臣等、政府の要職を歴任しました。晩年は向島に構えた別荘で過ごし、馬に乗って歩く姿が見られたようです。
建立にあたっては、大隈重信や大倉喜八郎、渋沢栄一、益田孝など政財界を代表する人物等が協力しました。
原型作者は藤田文蔵と田中親光であり、鋳造者は平塚駒次郎です。
この銅像は、平成十二年十二月七日に墨田区登録文化財に登録されました。
平成二十九年三月
墨田区教育委員会
参考文献等
使用アプリ:大江戸今昔めぐり
このブロブを書いた人:松本昌晴
私は会計事務所を約38年間経営してきましたが、70歳で後継者に譲り引退しました。引退後何をするか悩んでいた時、中国が福島原発の処理水放出に対して海産物を禁輸しました。そこで福島県を応援しようと思い、会津若松市に旅行することを決めます。会津若松市といえば戊辰戦争の激戦地。史跡をめぐる旅です。幕末まで興味が広がり、全国の幕末の史跡巡りをライフワークと決めました。
※私は幕末が好きで歴史散策している素人にすぎません。間違いや解釈の違いがあるかもしれませんのでご了承ください。
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