
勝海舟が設計!兵庫の海を守った幕末の「洋式砲台」とは?知られざる4大砲台と海防の歴史を徹底解説
幕末の動乱期、日本の海防の最前線となったのが兵庫・神戸の地であったことをご存知でしょうか。
黒船来航以来、緊迫する国際情勢の中で、江戸幕府は西洋の最新技術を導入した近代的な砲台の建設を急ぎました。 その指揮を執ったのが、幕末の風雲児・勝海舟です。
本記事では、勝海舟が設計した兵庫県内の「4カ所の洋式砲台」を中心に、当時の各藩が競うように築いた海防の足跡を詳しく解説します。 歴史ファンはもちろん、神戸や西宮の街歩きを楽しみたい方も必見の内容です。
旧西宮砲台跡
所在地:兵庫県西宮市西波止町1−14
撮影日:2024年2月10日
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和田岬砲台
所在地:兵庫県神戸市兵庫区和田崎町1丁目1
撮影日:2024年3月14日
「和田岬砲台」はこちら>>>
もくじ

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動画解説
音声解説 (対談式ポッドキャスト)
勝海舟が情熱を注いだ「兵庫の4大洋式砲台」とは?

文久3年(1863年)、将軍・徳川家茂は大坂湾の防備を視察するため、神戸村の小野浜を訪れました。 この時、家茂に同行し、砲台建設の重要性を説いたのが勝海舟です。
勝は実地踏査を行い、西洋の築城術を駆使した非常に珍しい構造の砲台を県内4カ所に築造することを決定しました。
これらの砲台は、中央に「石堡塔(せきほとう)」、別名マルテロタワーと呼ばれる円柱形の石造砲塔を備えているのが最大の特徴です。 塔には等間隔に11の砲眼が設けられ、海上からの艦船だけでなく、万が一敵が上陸した場合でも、360度全方位への砲撃が可能な設計となっていました。
建設が進められた4つの拠点は以下の通りです。
- 和田岬砲台(神戸市):現存する国の指定史跡
和田岬砲台は、元治元年(1864年)9月に完成しました。 現在も石堡塔部分が残されており、大正10年(1921年)には国の指定史跡となっています。 明治後期から大正にかけての古写真にも、その円柱形の堂々たる姿が記録されています。 - 西宮砲台(西宮市):土塁が残る歴史の証人
西宮砲台も、勝海舟の指揮によって築かれた一連の洋式砲台の一つです。 現在も円形土塁の石垣が部分的に現存しており、大正11年(1922年)に国の指定史跡に指定されました。 海辺に立つその巨大な石造りの遺構は、当時の海防への執念を感じさせます。 - 湊川砲台(神戸市):火災により失われた幻の砲台
神戸の湊川付近に築かれたこの砲台は、残念ながら現存していません。 明治24年の火災で内部が焼失し、翌年に解体されてしまいました。 - 今津砲台(西宮市):一石のみが伝える歴史
今津砲台も同様に、現在はその姿を見ることはできません。 大正4年、石材を他の用途へ転用するために解体されてしまい、現在はわずか一石が記念碑として残されているのみです。
なぜ兵庫に砲台が必要だったのか?「プチャーチン来航」の衝撃
そもそも、なぜこれほどまでに兵庫の沿岸警備が強化されたのでしょうか。 その大きなきっかけの一つが、安政元年(1854年)のロシア使節プチャーチンによるディアナ号の来航です。
プチャーチン率いるディアナ号は、大坂天保山沖に現れ、幕府に対して通商を要求しました。 この事態に、近畿の63藩(うち兵庫県内9藩)が警備のために出動する大騒動となりました。 ロシア船は大坂湾内を自由に航行し、当時の日本側にはそれを阻止する十分な武力がなかったのです。
この事件は幕府だけでなく朝廷にも大きな衝撃を与え、畿内の政治的地位が急速に高まるとともに、大坂湾(摂海)の防備が国家的な急務となりました。 以降、幕府は各藩に対し、競うように砲台の築造と大砲の鋳造を命じることになります。
播磨から淡路まで!各藩が展開した海防ネットワーク
勝海舟の直轄砲台以外にも、県内の各藩は独自の防衛網を築いていました。
- 明石藩: 嘉永6年(1853年)のペリー来航時、明石藩兵は浦賀の警備に出動しています。 これを機に海防意識が高まり、大蔵谷、舞子、八幡、出崎などに次々と砲台を築きました。 文久3年には、攘夷決行に備えて9基もの砲台を整備しています。
- 尼崎藩: 尼崎藩も文久3年から、高洲など5カ所に砲台の築造を開始しました。 藩内では、異国船防備のための講金を徴収し、具足類の補修を行うなど、官民を挙げた準備が進められていました。
- 徳島藩(淡路島): 幕府との関わりが深かった徳島藩は、淡路島の由良や岩屋に強力な砲台を設置しました。 幕府からは、淡路の防備を一段と厳重にするよう命じられていました。
- 姫路藩・龍野藩・柏原藩: これらの藩も、大砲の鋳造や沿岸の警備に力を入れました。 特に柏原藩では、寺院の鐘を集めて大砲を鋳造するなど、なりふり構わぬ軍備強化が行われました。
幕末期、日本沿岸には約1,000基もの台場(砲台)が造られましたが、大坂湾周辺だけでも文献上では100基を超える砲台が存在していたとされています。 兵庫の海岸線は、まさに「大砲の列」によって守られていたのです。
砲台の時代の終焉と、神戸開港

これほどまでに心血を注いで築かれた砲台ですが、実際に外国艦隊を撃退するために火を吹く機会はほとんどありませんでした。 時代は武力による攘夷から、開国・通商へと大きく舵を切ったからです。
慶応3年12月7日(1868年1月1日)、ついに兵庫(神戸)が開港しました。 皮肉なことに、敵を防ぐために造られた砲台が並ぶ神戸の街は、西洋文化が流入する「ハイカラ」な国際都市へと変貌を遂げていくことになります。
勝海舟が設計した砲台の多くは、役目を終えて解体されましたが、現存する和田岬砲台や西宮砲台は、日本が近代国家へと歩み出す直前の、激動の記憶を今に伝えています。
まとめ:歴史の面影を訪ねて
兵庫県内に残る幕末の砲台跡は、単なる軍事施設ではなく、勝海舟や各藩の志士たちが「日本をどう守るか」を真剣に考え抜いた情熱の結晶です。
神戸のウォーターフロントや西宮の海岸を散策する際は、ぜひ足元に眠る歴史の記憶に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
当時の人々が命がけで築いた石垣や土塁は、150年以上の時を経た今も、私たちに力強いメッセージを送っています。
補足:兵庫県内における幕末の洋式砲台と海防拠点一覧
| 砲台・拠点名 | 所在地(現在の市区町村) | 設計・築造主体 | 築造時期 | 構造・特徴 | 現在の状態(遺構・史跡指定) | 歴史的背景・備考 |
| 和田岬砲台 | 神戸市 | 勝海舟(設計) | 元治元年(1864年)9月完成 | 石堡塔(マルテロタワー)。円柱形石造砲塔。11の砲眼を備え、360度全方位への砲撃が可能。 | 石堡塔が現存。国の史跡(1921年指定)。 | 勝海舟が設計した4大砲台の一つ。将軍徳川家茂の視察を機に建設された。 |
| 西宮砲台 | 西宮市 | 勝海舟(設計) | 幕末(文久3年以降) | 円形土塁、巨大な石造り。石堡塔を備えた設計。 | 円形土塁の石垣が部分的に現存。国の史跡(1922年指定)。 | 勝海舟が設計した4大砲台の一つ。大坂湾の防備強化を目的として築造。 |
| 湊川砲台 | 神戸市 | 勝海舟(設計) | 幕末(文久3年以降) | 石堡塔を備えた設計。 | 現存せず。明治24年の火災で内部が焼失し、翌年に解体。 | 勝海舟が設計した4大砲台の一つ。 |
| 今津砲台 | 西宮市 | 勝海舟(設計) | 幕末(文久3年以降) | 石堡塔を備えた設計。 | 現存せず。大正4年に解体。現在は一部の石が記念碑として残る。 | 勝海舟が設計した4大砲台の一つ。 |
| 明石藩の砲台(大蔵谷、舞子、八幡、出崎など) | 明石市、神戸市など | 明石藩 | 嘉永6年(1853年)〜文久3年(1863年) | 文久3年までに計9基の砲台を整備。 | Not in source | ペリー来航時の浦賀警備を機に海防意識が向上し、攘夷決行に備えて整備された。 |
| 尼崎藩の砲台(高洲など5カ所) | 尼崎市 | 尼崎藩 | 文久3年(1863年)〜 | 市内5カ所に砲台を築造。 | Not in source | 異国船防備のため、講金の徴収や具足類の補修など官民挙げて準備が行われた。 |
| 徳島藩の砲台(由良、岩屋) | 洲本市、淡路市(淡路島) | 徳島藩 | 幕末 | 強力な砲台を設置。 | Not in source | 幕府から淡路島の防備を厳重にするよう命じられ、警備体制を強化した。 |
| 柏原藩の海防拠点 | 兵庫県内(沿岸警備担当地) | 柏原藩 | 幕末 | 寺院の鐘を集めて大砲を鋳造。 | Not in source | プチャーチン来航(1854年)等の影響を受け、内陸藩ながらなりふり構わぬ軍備強化を実施。 |
参考文献
本記事の作成にあたり、以下の資料を参考にいたしました。引用頻度の高い順に記載しております。
・山﨑整. 幕末維新の兵庫・神戸. 神戸新聞総合出版センター, 2018.
・神戸新聞「兵庫学」取材班編. ひょうご全史. 神戸新聞総合出版センター, 2006.
・佐藤信・五味文彦・高埜利彦・鳥海靖編. 詳説日本史研究. 山川出版社, 2017.
・アーネスト・サトウ(坂田精一訳). 一外交官の見た明治維新. 岩波書店, 1960.
・星亮一. 敗者の維新史. 中央公論新社, 1990.
・山村竜也(菊地明・伊東成郎共著). 坂本龍馬101の謎. 新人物往来社, 2009.
クイズ
問題1 幕末の兵庫において、西洋の技術を導入した近代的な砲台の建設を指揮し、設計を行った人物は誰ですか?
ヒント:「幕末の風雲児」とも呼ばれ、後に江戸城無血開城にも尽力した人物を思い出してください。
勝海舟
解説
1. 勝海舟が設計した「4大洋式砲台」とその特徴
勝海舟は、文久3年(1863年)に将軍・徳川家茂が大坂湾を視察した際、砲台建設の重要性を説きました。彼の設計による砲台は、県内の以下の4カ所に築造されました。
- 和田岬砲台(神戸市): 1864年に完成。現在も石造りの塔が残る、国の指定史跡です。
- 西宮砲台(西宮市): 円形の土塁や石垣が今も現存しており、こちらも国の指定史跡となっています。
- 湊川砲台(神戸市): 明治時代の火災により焼失し、現在は残っていません。
- 今津砲台(西宮市): 大正時代に解体され、現在は記念碑として石が1つ残るのみです。
これらの砲台の最大の特徴は、中央に「石堡塔(せきほとう)」、別名マルテロタワーと呼ばれる円柱形の石造砲塔を備えていたことです。塔には11の砲眼があり、海上だけでなく、上陸した敵に対しても360度全方位への砲撃が可能な、当時としては非常に珍しい設計でした。
2. 砲台建設が必要となった背景
なぜこれほど強力な砲台が必要だったのか、その大きなきっかけは安政元年(1854年)のロシア使節プチャーチン(ディアナ号)の来航です。 当時、プチャーチン率いるロシア船は大坂湾内を自由に航行しましたが、日本側にはそれを阻止する十分な武力がありませんでした。
この事件は幕府と朝廷に大きな衝撃を与え、大坂湾(摂海)の防備が国家的な急務となったのです。
3. 兵庫県内に張り巡らされた防衛網
勝海舟が直接指揮した砲台以外にも、当時の各藩は競うように海防ネットワークを構築していました。
- 明石藩: 攘夷に備え、9基もの砲台を整備しました。
- 尼崎藩: 官民を挙げて資金を集め、5カ所に砲台を築造しました。
- 徳島藩(淡路島): 幕府の命により、由良や岩屋に強力な砲台を設置しました。
- その他の藩: 姫路藩や龍野藩、柏原藩なども大砲の鋳造や警備に力を入れ、特に柏原藩は寺院の鐘を集めて大砲を鋳造するほど必死の軍備強化を行いました。
文献上では、大坂湾周辺だけでも100基を超える砲台が存在していたとされており、当時の兵庫の海岸線はまさに「大砲の列」で守られていました。
4. 砲台の結末と歴史的意義
心血を注いで築かれたこれらの砲台ですが、皮肉なことに、実際に外国艦隊を撃退するために使用される機会はほとんどありませんでした。時代が武力による攘夷から「開国・通商」へと大きく舵を切ったためです。 慶応3年(1868年)に神戸が開港すると、かつて敵を防ぐために砲台が並んだ街は、西洋文化が流入する国際都市へと変貌を遂げました。
現在残されている砲台跡は、勝海舟や当時の志士たちが「日本をどう守るか」を真剣に考え抜いた情熱の結晶であり、近代国家へと歩み出す直前の激動の記憶を今に伝えています。
問題2 勝海舟が設計した砲台の最大の特徴である、円柱形の石造砲塔の別名は何ですか?
ヒント:西洋の築城術に由来する、カタカナでの呼び名を考えてみてください。
マルテロタワー
解説
1. マルテロタワー(石堡塔)の画期的な設計
勝海舟が設計したこの砲台の最大の特徴は、円柱形の石造砲塔である点にあります。
- 360度の全方位射撃: 塔には等間隔に11の砲眼が設けられていました。これにより、海上の艦船だけでなく、万が一敵が陸に上陸した場合でも、あらゆる方向に対して砲撃が可能という、隙のない設計になっていました。
- 西洋技術の導入: 文久3年(1863年)に将軍・徳川家茂が大坂湾を視察した際、同行した勝海舟がその重要性を説き、自ら実地踏査を行ってこの非常に珍しい構造の採用を決定しました。
2. 兵庫に築かれた「4大洋式砲台」の現状
勝の指揮によって県内4カ所に築造された砲台は、現在それぞれ異なる運命を辿っています。
- 和田岬砲台(神戸市): 1864年に完成し、現在も石堡塔部分が現存しています。大正10年には国の指定史跡となっており、当時の堂々たる姿を今に伝える貴重な遺構です。
- 西宮砲台(西宮市): 円形土塁の石垣が部分的に現存しており、こちらも国の指定史跡です。巨大な石造りの遺構からは、当時の海防への並々ならぬ執念が感じられます。
- 湊川砲台(神戸市): 明治24年の火災で内部が焼失し、翌年に解体されたため現存しません。
- 今津砲台(西宮市): 大正時代に石材転用のために解体され、現在はわずか一石が記念碑として残るのみとなっています。
3. なぜ「マルテロタワー」が必要だったのか
この近代的な砲台建設の背景には、安政元年(1854年)のロシア使節プチャーチン(ディアナ号)の来航という衝撃的な事件がありました。 プチャーチンは大坂湾内を自由に航行し、当時の日本側にはそれを阻止する武力がなかったため、幕府や朝廷は大きな危機感を抱きました。
これを受けて、大坂湾(摂海)の防備は国家的な最優先課題となり、勝海舟のような専門家による近代砲台の建設が進められることになったのです。
4. 時代の転換とその後
これらの砲台は、日本の海を守るために心血を注いで築かれましたが、実際に外国艦隊を撃退するために使用されることはほとんどありませんでした。
皮肉なことに、完成から間もない慶応3年(1868年)に神戸が開港したことで、時代は武力による「攘夷」から「開国・通商」へと大きく舵を切りました。かつて敵を防ぐための砦が並んだ場所は、西洋文化が流入する国際都市へと姿を変えていったのです。
現在残されている和田岬砲台や西宮砲台の跡は、日本が近代国家へと歩み出す直前の激動の時代に、勝海舟や志士たちが「日本をどう守るか」を真剣に考え抜いた情熱の結晶といえます,。
このブロブを書いた人:松本昌晴
私は公認会計士・税理士として会計事務所を約38年間経営してきましたが、70歳で後継者に譲り引退しました。引退後何をするか悩んでいた時、中国が福島原発の処理水放出に対して海産物を禁輸しました。そこで福島県を応援しようと思い、会津若松市に旅行することを決めます。会津若松市といえば戊辰戦争の激戦地。史跡をめぐる旅です。幕末まで興味が広がり、全国の幕末の史跡巡りをライフワークと決めました。
※私は幕末が好きで歴史散策している素人にすぎません。間違いや解釈の違いがあるかもしれませんのでご了承ください。
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